続・『決定の本質』のこと

グレアム・アリソン『決定の本質―キューバ・ミサイル危機の分析』(宮里政玄訳、中央公論社ASIN:4120007340)。前回のやつは天堕氏に採りあげてもらったりしてありがたいことだ(天堕氏はちょくちょく出てきた方が面白いのじゃないか、と思った)。というわけで続き。
(日本にしろ外国にしろ)政府が何かを行ったとき(あるいは行わなかったとき)、その決定(行うという決定、行わないという決定、あるいは非決定)の原因は何だと考えるか。あるひとはこうだといい、またあるひとはああだといい、結局のところその人が持っている「認識の枠組み」と「知識量」がものを言う。
この本を初めて読んだのは大学生の頃だったか。3800円の本なんかとても買えなかったので、図書館で借りて(マンガやアニメには金を使っていたのだがな!)。最近古本屋で見つけて再読した。
さて、先日話題に出したときは「陰謀論」と絡めて書いたが、別にこの本は「キューバ危機の背景にアメリカの(あるいはソ連ユダヤ・アラブ・宇宙人・フリーメーソンナチスの残党・ゼーレ・NHK(日本ひきこもり協会)の)陰謀がある!!」と力説する本ではない。本書は、「なぜソ連は攻撃用ミサイルをキューバに持ち込もうとしたのか。なぜアメリカはソ連のミサイル配備に対してキューバの封鎖でもって対応することを選んだのか。なぜソ連はミサイルの撤去を決めたのか」という歴史的研究テーマについて、複数の意思決定モデルを用いつつ検討した、古典的名著である。
「老練なソ連首脳対苦悩する若きアメリカ大統領」「核戦争寸前」「テレビで放映される危機」「世界が最も全面核戦争に近づいた瞬間」…。学者や政府関係者でなくともキューバ危機には「そそられる」ものがある。しかし、キューバ危機の分析それ自体よりも、本書の特色として最も重要なのは、思考の「枠組み」をいくつか検討しつつ、それぞれの「枠組み」を用いるとキューバ危機はどのように見えるのか、「枠組み」の特徴と長所・短所は何か、ということを示している点だ。
この本がアメリカで出版されたのは1971年。論文として発表されたのはさらにさかのぼるだろう(邦訳本の発行は1977年。なお当時の定価は2500円。いい加減文庫で出してくれてもよさそうなものだ)。今でこそソ連が崩壊しているが、当時はデタントもあったとはいえまだまだ冷戦期。「なぜソ連キューバにミサイル基地を建設したのか」を解き明かそうにも、ソ連側の資料もないし関係者インタビューも容易ではない。キューバ危機当時のアメリカが持ち得た情報の中で、異なる「枠組み」によってソ連の意図はどう解釈されるのか、アメリカの海上封鎖という選択肢はなぜ採用されたのか、なぜソ連はミサイルを引き揚げたのかを丹念に追っている。そしてその研究結果は、我々がなにかを考える際に、今でも非常に有益だ。この本を読むと、「なぜ陰謀論が出てくるのか」という問に対するヒントを得ることができる。
アリソンは、「枠組み」として三つのモデルを挙げている。(1)合理的行為者、(2)組織過程、(3)政府内政治(いわゆる「官僚政治モデル」)。まずそれぞれを概観しよう。
合理的行為者のモデル(古典モデル、第一モデル)による推理パターンとして、アリソンはこう述べている。「国がある特定の行為を行ったのであれば、その国は目標を有し、そして行為はこの目標を達成するための、極大化的手段を成していたに違いない」。つまり国(政府)はある目標を持っており、その目標を達成するのに複数の選択肢がある場合、選択肢のコストを計算し、選択肢がもたらすベネフィットを計算し、比較考量して(つまり「合理的」に考えて)目標を達成するために最も適切と思われる政策を行う、というモデルだ(推測パターンの方はその逆を追っている)。そして、国の目標と選択肢が与件ならば、国がどのような政策を選択するかは予測可能であり、その予測から外れた選択肢が取られた場合、そのような政策は「非合理的」であり「誤り」とされる。
至極まっとうで、多くの人がこの考え方で国際政治や国内政治を見ているように思われる。例えば、このモデルを用いると、「なぜソ連キューバにミサイル基地を作ったのか」については次のような仮説が考えられる(アリソンは全部で5つの仮説を例示している)。1950年代においては、スプートニクに代表されるようにソ連の技術力は高く、そして実際アメリカよりも核戦力で言えばソ連の方が強かった、と思われていた(いわゆる「ミサイル・ギャップ」)。ところが、アメリカがいろいろ研究してみたところ、実のところそのようなミサイル・ギャップは存在せず、むしろアメリカの方が核戦力上優位である、ということが次第に明らかになった(そしてそのことをアメリカは公表した)。ソ連としては、短期的にはICBMや潜水艦発射用ミサイルを大量に調達することが困難だったので、キューバに中距離弾道ミサイル(MRBM)を持ち込んで、ギャップを解消しようとした、という説だ。この場合、ソ連の目標は「逆ミサイルギャップの解消」であり、MRBMでもアメリカ本土を射程に収めることのできるキューバにミサイル基地を建設するのは「合理的」のように思える。
一見もっともらしいが、この仮説では説明できない点がいくつかある。例えば、地対空ミサイル(SAM)基地の完成前にMRBM基地が完成したこと。逆ミサイルギャップを解消するためにはMRBM基地が完成し稼働しなければならず、それを脅威に思うであろうアメリカが実力で排除するのを防ぐためにはSAMは不可欠である。だとするならMRBMの前にSAMが完成していなければおかしいが、事実はそうではなかった。また、そもそもミサイル基地建設途中で事が発覚すると、アメリカからプレッシャーがかかり、逆ミサイルギャップの解消が困難になることは当然予測されたのに(事実そうなった)、ソ連はミサイル基地のカモフラージュを怠っていた、ということも「ミサイルギャップ説」に疑問を投げかける(キューバのSAM基地は、ソ連内のSAM基地と同様、戦略ミサイル施設防衛のための確立されたパターンに従って建設されていた…このパターンを知っていたアメリカ当局者にとって、当該パターンで建設されたSAM基地の存在は、核ミサイル基地の存在を示すのと同義だった)。この疑問に対しては、例えば「駆け引きのバーター説」(わざとキューバのミサイルを発見させておいて、アメリカがトルコに配備しているミサイルを撤去するならキューバのミサイルを撤去する、と持ちかける)が考えられるが、それでも十分に説明できない。
これに対し、第二モデル、すなわち「組織過程」のモデルはどのようなものか。第一モデルとの最大の相違点は、「行為の主体」の捉え方だ。第一モデルにおいては、「国」(=「単一の合理的決定者」)が行為の主体だった。しかし、「国」は当然のことながら「意図」を持たない無機的なものだ。第二モデルにおいては、「国」を構成する組織に着目する。キューバ危機のアメリカ側のプレイヤーは、大統領(及び側近)、国務省国防総省、統合参謀本部、海軍、空軍などだ。そしてアリソンは、第二モデルによる政策を、「意識的な選択というよりも、行動の標準的様式に従って機能している大きな組織の出力である」と表現する。組織は巨大であり、問題認知や解決策の立案、決定、実行は、組織内部の手続きや「組織文化」に依存する。だから、ある政策が行われたとしても、それは「国」とか「大統領」とかいう主体の意識的な判断というよりは、組織がルーチンワークで生み出す出力に過ぎない、と考えられる。
なぜSAM基地はカモフラージュされず、アメリカに発見されるがままになっていたのか。それは、MRBMとSAMを担当する役所が違ったからだ。核兵器が絡んでいる場合のソ連の標準的作戦は、「アメリカでは想像もつかないほどの秘密保持を要求」し、そして秘密裡の兵器輸送は伝統的にGRU(ソ連陸軍の情報機関)の担当なのだそうだ。しかしSAMは防空司令部の管轄。ひとたびそれぞれの組織に仕事が下ろされたあとは、それぞれの組織のルーチンに従って仕事がなされることになる。そして今までソ連内部でしか戦略ミサイル基地を建設してこなかったこともあり、防空司令部には「SAM基地建設を偽装する」というルーチンがなかった。だから偽装されず、発見されるがままになっていた、ということ。
繰り返すが、第二モデルにおいては「国家の意思」とかいうものは存在しない。あくまで「組織の出力」があるだけだ。このモデルは、第一モデルが想定する「国がこういう行動を行った、だから裏にはこういう意図があったに違いない」という推測パターンを否定するものだ。
第三モデルの「政府内政治」、いわゆる「官僚政治モデル」は、第二モデルを拡張する。実際の政策は、組織の出力そのままではなく、ある種の「調整」の結果であることが多い。官僚政治モデルでは、「政府の行動は、第三の概念モデルに従って、組織的出力としてではなく、これらのかけひきゲームの結果として理解することができる」「国がある行為を遂行したとすれば、その行為は政府内の個人やグループ間のかけひきから派生した結果である」とする。
政府がやるべき仕事は膨大であり、一つ一つの政策分野(例えば外交)ですら多数の人間と組織の関与を必要とする。そして「対外政策問題の性格上、良識ある人間の間にも、問題をいかに解決するかについて根本的な相違が生ずる。問題の分析から相対立する勧告が生まれるし、特定の個人の責任分担が異なっているために、何を見、何を重要と判断するかについて各個人間に相違が生じてくる。しかし国家の行為は極めて重要なものである。選択を誤れば、取り返しのつかない損失を招く。かくして責任ある人々は自ら正しいと信ずることのために戦わざるを得ない」。よって政府内部は政策の最終決定を自らの思う通りにしようとする各主体が入り乱れ、かけひきし、策略をめぐらす。
というわけで、政府の行為とその目的・意図との関係については、「政府の行為は政府にその意図があったということを意味するものではない。ある問題に関連する政府代表の行動の総体が、ある個人またはグループの意図したものであることは稀である。というよりも、異なった意図を持つ個々のプレーヤーが派生結果に部分的に作用するのである」と要約することができる。
このモデルでキューバ危機を分析しようとすると、たちまちのうちに困難に襲われる。このモデルでは政府内部の個人・グループがどのような主張をしどのような経路をたどって最終決定が成されたか、についての情報が必要だが、ソ連についてはもちろんのこと、アメリカ政府内部ですらその種の情報を入手することは(アメリカ人でありハーバードの研究者であるアリソンにとっても)困難である。彼は言う。「国または政府の内部事情に関する情報が少なければ少ないほど、古典モデルに依存する傾向は高まる」と。それでも彼は第三モデルを用いていくつかの分析を行っている。


以上が『決定の本質』の概要だ。
さて、「陰謀論」との絡みについて。賢明な読者の皆さんはお気づきの通り、ほとんど全ての陰謀論陰謀論者は、認識モデルとして無意識のうちに「合理的行為者モデル」を前提としている。つまり、政府がある政策を行った、あるいは行わなかったことについて、「それは政府に○○という意図(陰謀)があったからに違いない!」と主張するが、この場合あたかも「政府」が意図を持って選択している、あるいはごく少数の「黒幕」が操っている、という前提に立っている。しかし、先に見てきたように、第一モデルのみによる分析はすぐに行き詰まる。なぜなら政府は組織の集合体であり、そして内部では壮絶なかけひきが行われ、その結果としてある政策が出力されるからだ。
アメリカが、あのような形と規模で、あの時期に、イラクに介入したことも、「合理的決定者モデル」のみで解釈してはならないだろう。「石油利権のため」と言ってしまえば簡単だが、アメリカの政策はラムズフェルドやチェイニーのみで決められるものではない。膨大な組織が存在し、一方には議会があり、911という事件があり、10年前には湾岸危機があり、そのような中で形成されてきた文脈が複雑に絡み合って「イラク戦争」という出力が成されたことは容易に想像できる。これについては今後の研究が待たれるところだが、いずれにせよ「イラク戦争は石油利権のためだった!」と考えてしまうと実態を見失う(いや石油利権が関係ないとは言わないけどね)。
日本について言えば、普段から「省益ばかり追及して、国益を蔑ろにしている、けしからん」と批判されるのに、なぜか陰謀論の時には政府が一致団結してその陰謀を推進することになっている。だがこのような二重規範による理解は、別に日本だけの専売特許ではない。たとえばアリソンは次のように述べている。

アメリカ政府の参画者が自国政府内である問題を考えるときには以上の事実(引用者注:政府の決定は、第三モデルに示されるようなかけひきの結果行われること)を理解しているが、他国の政府について考える場合にはこれを無視して、その代わりに第一モデルの諸概念と論理を用いるという傾向は、ヘンリー・S・ロウエンが述べた逸話によく例証されている。アメリカ政府に就職してからまもなくロウエンは、異なった機関からの代表十二名が出席した、中東で海水から真水を作る問題に関する会議に出席した。アメリカの政策について一時間以上の討議の後で、各代表が政策について鋭く対立していることは互いに明白であった。さらに機関の中には全く相反する行為路線を採っているのもいくらかあった。しかし、会議が次の議題に移ると、あたかも広い国家目標に照らして一人の合理的人間が首尾一貫した行為路線を選択したかのように、「海水から真水を作る問題に対するイスラエルの政策」について全員が討議し始めた。

アリソンは、分析の手段としての第一モデルの利点を完全には否定していない。第一モデルが適当な場合もある。しかし、「情報が少なくなれば、第一モデルに依拠しやすくなる」とも考えている。陰謀論を唱える人も情報が少ないからこそそう考える面もあるのだろう(「陰謀」が世の中に存在しないとは言わないが)。陰謀論を唱えることはたやすい。情報が少なくてもいいんだもの。それに対抗するには、広い情報を手に入れ、自分の認識枠組みが偏っていることを認識しながらものを考えなければならない。つまり、安易に陰謀論を唱える人に対しては、彼(彼女)が持っている情報を確認し、より広い情報を集め、第二第三モデルについて目配りをしながら検討しなければならない、ということだ(実際のところその後の研究の発展もあり、第二第三モデルにとどまらないだろう)。
他方、こう考えてくると面白い点が浮かび上がる。陰謀論者が「政府のこれこれの政策から考えると、こういう意図があったに違いない」と考えるということは、彼らは「政府は非常に「合理的」に行動している」と推測しているということだ。政府が愚かで非合理的ならば、実行された政策からその意図を探る推測のリンケージは寸断される。しかし、そこを無理無理繋いでしまうということは、無意識のうちに政府の合理性を信頼している、と解釈できる。そんなに信頼されると照れちゃうなぁ。
いずれにせよ、安易な陰謀論者に対しては、「勉強して出直してこい」と言って適当にあしらっておけばよい。安易でない陰謀論者については…じっくり検討しましょう。