前例主義と組織の拡大(羊堂本舗より)

前例主義と組織拡大。この役人の典型的な習性はどのように整合的に理解されうるか。
役人が前例主義をモットーとすることは多く説明する必要はないだろう。市役所や国の役人が前例主義的に行動・発言するのを直に見聞きした人も多いのではないか。一方、役人は組織を拡大する。というか、組織・人員・予算・権限を増大させたがる。行政学の講義でこのことについての説明があったはずだが、すっかり忘れてしまい、しかも本も手元にないので何とも解説できない。が、おおよそ「役人は放っておくと組織・権限の拡大に走る」というのは正しいはず。(であるからして諸外国の官僚も組織拡大に走り、結果70年代中盤以降の新保守主義の潮流の中で各国で行政改革が叫ばれ実行に移されるようになった、という話もある。対して日本は悪名高き「総定員法」の存在により、国の役人の数については徒な増大が行われず、諸外国に比して効率的な行政といえるという指摘もどこかで読んだが、しかしそれは国が果たすべき業務を特殊法人公益法人にやらせているだけである。つまり特殊法人改革・公益法人改革をそれだけで議論しても無意味であって、総定員法と絡めた「国の役所のあるべき姿」を探ることから議論する必要があるというのが繰り返し述べている私の主張なのだが、今回は直接関係しない。)
さて、「取り敢えずオープニングが頭に付いて離れない。プリキュア、プリキュア♪」であって、かつはてなダイアリー市民であるという羊堂本舗氏の指摘は、「この二つは相反するものなのではないか」ということだ。(なんかわけのわからない枕詞だな。)

役人の習性として「前例主義」と「組織の維持拡大」がよく言われる。よくよく考えてみると、この二つって相矛盾しないだろうか。前例主義を取って去年と同じことをしていては、組織を維持できても拡大を図ることは言葉の定義からして無理である。何せ去年と同じことをしているのだから。逆に組織の拡大を図ろうとするなら、前例にとらわれていては目的を果たせない。

ここで、氏は役人の仕事の評価と絡め、前例主義について「大量の案件を裁くために、前例に基づいて仕事をするようになるだろう」とし、なぜ大量の案件をさばく必要があるかといえば、仕事量の多寡が「役人の昇進を含んだ報酬体系」を決定しているからではないか、と提起しておられる。
報酬体系の話はとりあえずおくとして、私は、日常業務での「前例主義」と、「組織拡大」の際に作用する「前例主義」は違う意味を持っているのではないか、と考える。
そもそも前例主義とはどのような意味があるのか。前例主義とは事務処理コストの問題であるという氏の指摘は、当を得ていると思う。コストから見た前例主義の意味は、以下のようなものではないか。

A1「他者が批判・要望するコストを上げる」
A2「他者からの批判・要望を却下するコストを下げる」
A1とA2は裏表の関係。前例の存在により、ある行動を他者が批判しにくくなる。また、批判から防衛しやすくなる。つまり批判・要望のハードルが高くなる。「大事な商談に遅れそうなんです!パトカーで連れて行ってもらえませんか」「んなことは警察はいたしません」。
B「他者を説得するコストを下げる」
前例の存在により、正当化しやすくなる。ある行動の問題となっている点につき、いちいち意を尽くして関係各方面を説得する必要がなくなる。「ホントにこういう出し方していいの?」「大丈夫です。以前これこれこういう補助金で大蔵が認めています」。受験生の例で言えば「受験に遅れそうだからパトカーで送ってくれ」「警察の仕事ではありません」「京都府警がやったじゃないか!なんであいつは送って俺は送らないんだ!」。

ここで、それぞれの性質から、組織拡大の局面において顔を出す、すなわち権限拡大のために他者を説得する際に用いる前例主義はBであり、そのほかの局面ではAの前例主義が用いられる、と考えることができよう。
説得というのは非常にコストのかかるものだ。様々なデータや法解釈を駆使して攻めていかなければならない。しかし、あることが前例になれば、すなわちデータ等によりしかるべき筋が説得され行動が正当化されれば、その次からはいちいち説得しなくて済む。羊堂本舗氏の解釈でいえば、自分の中のオーソリティーの説得コストが低くなる(すなわちいちいちデータ等を踏まえて判断する必要がなくなる)、すなわち事務処理コストが低くなる、とも言える。
権限拡大は、典型的には新たな立法によってなされるが、既存の法律の枠内で処理できないから新法を作る必要があるわけであって、それ自体は前例主義の枠内ではない。必要性等を示して各方面を説得する必要があるわけだ。しかしその場合でも、例えば過去に類似の法律があり、財政法・各省庁設置法その他行政法あるいは民法等の基本的な法律の枠内であるということを前例を持って説得することができるという点で、前例主義を踏まえている。
日々の法律の運用は都道府県や国の出先等の「現場」が行うわけだが、その解釈は一義的には中央官庁で行うことになる(もちろん最終的には裁判所が解釈するわけだけど)。もし前例にない事態が発生すると、それを認めていいかどうか、上の判断を仰がなければならない。これは非常に手間だ。だから日常運用においては前例の枠内で行う。前例が前例である以上それに沿っていれば当座問題がないからだ。
ここで注意すべきは、「法律の内部で行われる」ということと、「前例が未だに例として通じる」ということが前例主義の前提となっている点である。
いくら前例でも、それが法律違反であれば、裁判所で爆発することになる(広く行われているから法律の範囲内である、という解釈もあり得るのだけど)。逆に言えば法律の範囲内でしか前例は機能しない。
また、従来「官僚の無謬性」などと言われ、役人のやることは間違わない、間違っているはずがないという思想があったが、そんなものはあり得ないのはご案内のとおりである。それに加え、社会は常に変化しているので、前例が前例のまま通じることは少なくなってきているはずだ。
この前例主義の前提を踏まえ、前例を崩すためにはどうすればいいかというと、「新しく行われようとする行動が憲法、あるいはその他法令に違反するものではない」「前例が前例として通じない」ということを同時に説得しなければならない。非常に骨が折れる。だから安易な方向へ、前例主義へ走ってしまうのだ、と思う。