コメント欄でのご意見について

えー長らくお返事ができずお待たせして大変申し訳ありませんでした。本件についてはきちんと私の考えを述べておく必要があると考えますので、以下反応いたします。もう私は皆さんの反応を読んで……やめておきましょう(笑)
なお、繰り返しますが、今般のイラク政策に対する私の基本的な考え方は、id:kanryo:20031214#p2やid:kanryo:20040415#p3で明らかにしているとおりです。

セカンドレイプ」という用語

まず、日曜日の日記に対するうしさんのコメントに対し、半ば激情に駆られて書いた「セカンドレイプ」の件です。深くは申し上げませんが、個人的に「セカンドレイプ」とはいささか縁があり、この用語に対しては私は非常に慎重に使いたい、社会一般でも慎重に使ってほしいと考えています。
犯罪被害者の二次受傷一般を指して「セカンドレイプ」と表現するという説は、水曜日のコメント欄で初めて聞きました。犯罪被害者といってもその形は様々であり、それを代表して「セカンドレイプ」と形容するのは適切でないと考えています。
たとえて言うなら、今回の誘拐被害者と北朝鮮による拉致被害者を同様に扱うようなものです。確かに、意に反して身柄を拘束され、政治的に利用されたという点では同一でしょう(…この時点でこの同一性を疑わしめる情報もあるのですが、それについては確認できません)。しかし、そこに至る過程が全く違う。政府が退避勧告を出し、危険を知らせるスポット情報を十数回も出していたイラクに行って、そして捕まった人間と、平和な新潟の海岸で散歩していたらいきなり拉致された人間を同一に扱って良いのか。
セカンドレイプ」と二次受傷一般を同一視するのは、いたずらにセカンドレイプ被害者の地位をおとしめ、その社会的問題点を封殺する言説だと思います。

犯罪被害者一般に対する反応

では、犯罪被害者一般に対し、その二次受傷を考え、いつも口をつぐむのが正しいありかたか。私は必ずしもそうとは思いません。
犯罪被害者といってもその形は様々です。三菱トラックタイヤ脱落事故のように、なんの落ち度もない殺人被害者・レイプ被害者が一方の極に位置し、他方限りなく自分のせいで犯罪に巻き込まれた人々がいます。
ピッキングによる犯罪が多発していることが新聞でも報じられ、例えば町内会報でもさんざん注意されているにもかかわらず、古いシリンダー錠だけで守られた玄関と勝手口を持つ一戸建て住宅に住み、、しかも数百万円の現金をタンス預金していた人が、ピッキングによる窃盗にあった。この場合、もちろん悪いのは泥棒ですし、被害者はれっきとした被害者です。警察の防犯体制にも問題があったのかもしれません。しかし、被害者に落ち度はないのでしょうか。
古いシリンダー錠のみで、第二第三の錠前を設置していなかったのは落ち度でしょう。銀行が潰れても一千万円までの定期預金は全額国によって保護されるにもかかわらず(普通預金に至っては一千万円を超えても今のところ全額保護されるにもかかわらず)、タンス預金にしていたところも問題でしょう。貸金庫という手段もあったのに、それを用いなかったことも問題でしょう(貸金庫を借りるお金をケチってタンス預金を選んだと言うことは、安全にお金を保管するためのコストをかけない代わりにリスクを取ったということです)。
こういう場合、「そりゃぁあんたも悪いよ」という反応はごく普通のことではないでしょうか。具体的なピッキング犯罪例に則して防犯対策を広報するのはひろく社会全体に利益のあることだとも言えます。ただ、この場合わざわざ声を大にして赤の他人が非難するようなことではないかもしれません。が、イラクでの人質に関してはちょっと事情が違います。
今回のイラク人質事件の被害者に関しては、前述したとおり、限りなく「自分のせい」という面が大きいように考えます。そりゃ自衛隊を派遣したのが悪い、もっというならアメリカが悪いという主張もあり得ますが、私のイラク政策に対する考え方でも明らかにしたとおり、私は自衛隊の派遣は適切であったと考えています。
さて、「ちょっと事情が違」うのはなぜか。それは、人質三人の軽率な行動によって、国民の利益が著しく害されたと考えるからです。直接的な20億とも50億ともいわれる経費もさることながら、アメリカやその他諸外国や現地部族に借りを作ったこと、逢沢副大臣に対しヨルダンが2000億円もの円借款の債務免除を求めたこと、代理大使はじめ在イラク日本大使館職員の命を余計に危機にさらしたこと、さらに(ここまでいうのはこじつけみたいなものですが)国会での年金審議やハンナン事件、日歯連汚職から結果として国民の注意をそらしてしまったこと、などです。
結局のところ、犯罪被害者に対する反応は、場合によりけりと言わざるを得ません。そして今回の人質三人には重大な落ち度があった、と私は考えます。勝谷誠彦氏イラクを訪れたとき、彼のできる限りの防衛措置をとったにもかかわらず、しかしながら現地武装集団にとっつかまるという事件がありました。こういう例があるのにそれに学ばず、無謀なイラク行きを敢行して人質に取られている以上、自業自得という評価はそれほど外れたものではないと考えます。
なお、もちろん「非難されてもおかしくない落ち度があったこと」と「実際に非難すること」はまた別の問題ですが、この日記は私が思考した結果を書き表す日記であるので、そのように書き表したところです。なぜ書くことを決断したかというならば、日曜日の日記のリンク先にあるような事態はその時点で素直に考えてありそうだと思ったからであり、それに対して日曜日の記述のとおり考えたからです。彼らの理想と私の理想を実現する手段が違う以上、彼らの予測される行動に対し「政治」的に反応したものです(最終的な理想は同じだと思いますよ。みんなが平和的に豊かに死におびえることなく幸せに暮らすことだと思います)。
ただ、水曜日のあの文脈において「プロ市民」というたとえを用いたことは、適切ではなかったと率直に反省いたします。

「私」という存在と「官僚」という身分

次に、「私」と「官僚」について。既にのりさんご指摘のように、この日記における私の主義主張をもって「官僚とはこうだ!」と一般化するのは間違っています。日本には膨大な数の国家公務員がいる以上、その考え方は様々であり、一様ではありません。ここ十年「官僚」のイメージは非常に悪いですが、全ての官僚がそのような性質を持っているわけでは当然のことながらなく、その悪いイメージを形成してきたのは一部の汚職官僚であり、また選挙のためにそういうイメージを演出してきた各政党の影響も大きいと考えられます。
うしさんが述べておられるように、官僚という看板を出している以上、うしさんが理想とする「官僚像」に相応しいかどうかという点について私が評価されるのは一向に構いませんが、私の発言をもって官僚とはこんな人間なのか、とするのは間違っています。そんなことも分からないほどこの日記の閲覧者がアホだとは思いませんが、それともそういう注意書きをしなければならないほどこの日記の閲覧者はアホなんでしょうか(反語)。いやもちろんそう主張したい人には何らかの政治的思惑があってそう主張されるのでしょうから、私としてはそれ自体「ご勝手に」としか言いようがありません(この場合の「政治」とは、何らかの手段をもって人の行動に影響を与えようとすること、という広い意味で用いています。このようなレトリックは私もしばしば使います)。
さて、「私の主張」と「官僚としての立場」の区別について。私は現在国家公務員(所謂官僚)という職に就いており(その事実を証明することはできませんが)、そして、たとえ辞職しても守秘義務がついて回ることを考えれば、もはや一生「国家公務員」という呪縛を逃れることはできないと言っていいでしょう。よって、「私」と「官僚」を分離して考えることは私にはできません。私の考えは「官僚である私」の考えです。もちろん生まれる前から官僚であったわけではないので、「私」の方が先に来ますがね。(この点、総理の靖国参拝の時に常に問題となる「公人か私人か」という二分法は、理解しがたいものがあります。何とかひねり出した法解釈上の区分とすればまぁ分からないこともないですが、感覚的には納得ができません。)
いったい、この日記を閲覧されている方は何を期待されているのでしょうか。今回の事件に関し既にマスコミで報じられているとおり、「人質の皆さんが無事帰国されたことを、お喜び申し上げます。テロに屈して自衛隊を撤退することはいたしません。政府は可能な限りの手を打って人質の救出に全力を挙げたところであり、イラク国内の関係者はもとより諸外国政府、政府の対応を支持してくださった国民の皆様に感謝申し上げます。なお、政府といたしましては、度々スポット情報を出して注意を喚起してきたとおり、イラク国内は非常に危険であると認識しており、イラク国内にいる邦人の皆さんには速やかに待避していただくようお願い申し上げます。また、これからイラクに行こうと考えておられる方につきましては、危険性に鑑み、渡航をやめていただくようお願い申し上げます」という公式答弁ラインでも書けば良かったのでしょうか。
少なくとも私は、そういうことをこの日記に書きたいとは思いません。もしそういう記述をお求めなら、どうぞ各省庁公式webサイトを訪問してください。ここでは、公式答弁では絶対に言わないような・言えないようなことを書いております。そういう場であることをご理解頂きつつ、突っ込んだり批判したり生暖かく見守ったりしていただきたいと思います。
なお、id:trinisicさんに、「『私は私』、といいつつ日曜日の日記で『コメントを控える』というのは矛盾ではないか」とご指摘いただいております。私はこれは矛盾ではないと考えます。私に内部化された美学の問題として、閣議決定後法案成立前の件についてコメントを控えるわけであり(「あとだしはかっこわるい」、という感覚)、もちろん国家公務員法人事院規則による政治活動の縛りはありますが、そういうものとはまた別の観点であることをご理解いただきたいと思います(文章が読解しづらくてすいません。今後とも精進してまいります)。

「官僚かくあるべし」

id:dokushaさんがこんなことを書いておられます。

思想信条が異なっていようとも国民が等しく幸せな生活を送る。その為の社会を守る事。これがこの主権在民の民主国家である日本における「官僚」の職務ではないのか。国民の幸せを願えないのなら職を降りよ。少なくも公開の場で「官僚」として発言すべき事柄か再度内省してみては如何か。

ついでにdokushaさんのところから孫引き。

すべて公務員は 全体の奉仕者であって 一部の奉仕者ではない 日本国憲法第15条第2項

服務の根本基準(国家公務員法第96条第1項)

すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行にあたっては、全力を挙げてこれに専念しなければならない

まったくもってご指摘のとおりです。役人の職務は、一人一人の国民に奉仕することではなく、国民全体、社会全体に奉仕することです(この場合の「全体」は当然のごとくフィクションです)。もちろん一人一人を幸せにしつつ全体が幸せになればいいのですが、社会がそう単純ではないことは皆さんご承知のとおり。今回の人質事件では個人と国家の深刻な利害対立がありました。すなわち、人質三人の生命と、テロに屈する形での自衛隊撤退、あるいは前述の諸々のその他国益に対する脅威の対立です。dokushaさんが引いたのと同じ憲法が「公共の福祉」という概念を導入していることを改めて引くまでもなく、個人と全体の利害対立をどうさばくかは判断の問題であり、それを判断するのが政治であり司法であり、役所もその一翼を担っています。
もし一人一人の幸福を最大化するように政治家や役人が動いたらどうなるか。というかそんなことを考えたら動けなくなります。そして日本が潰れます。いや、役人だけが日本を支えているわけではないことは当然ですが、役人がそういう判断をし出したら間違いなくこの国は潰れるでしょう。とりあえず国債管理政策に失敗し、FBあたりで不渡りを出し、結果経済は恐慌を来たし、そこに至っても役人はまともな回復策を打ち出せず、日本は大混乱に陥るでしょう。役人が相手にしているのは「全体」であって、「一部」ではなく、一部のために全体が大損害を被ることは、国民的合意がない限り、政府が取るべき選択肢ではありません。
もちろん個々の人々の幸せを願わないわけではありませんよ。たとえば今回の人質家族の自衛隊撤退主張にしても、それが肉親の命を守るためである限り、それほど非難されるべきことではないと思います。ただ、それを真に受けていちいち採りあげてはいけない、ケースバイケースである、ということです。

自国民保護に関する政府の一般的な責任と、世論

それなら今回のケースはどうだったの、ということになります。
id:cesarioさんがコメント欄で指摘してくださっているとおり、政府には在外邦人保護に関する一般的な責任があります。これを根拠に今回の人質救出に向けた様々な動きがなされたわけです。同時にcesarioさんのご指摘にもあるように、結局のところ、どう具体的に動くか、どこまでやるかというのは判断の範疇です。邦人保護のためなら何でもすべきだという主張は「公共の福祉」とのかねあいで問題があるといわざるを得ません。
とすると結局のところどういう基準で判断がなされるかと言えば、「世論」ということになります。主義主張理想等々いろいろ考えるべきことは色々ありますが、具体的にぶっちゃけて言うならば、まもなく投票される補選や、夏の参院選自民党議席を守れるかどうかということです(ということを判断するのは役人の仕事ではなく政治家の仕事ですが)。小泉政権自衛隊を撤退させないという判断をし、しかし可能な限り救出に向け努力するという判断をし、無事解放の後は「救出費用については飛行機チャーター費用や検診の実費を負担してもらう」という決断をしました。全てが全て世論の動向を見て、というわけではないでしょうが、おおよそ世論の大勢に沿った決定であると言えます。
一方、ハーグ事件、クアラルンプール事件、ダッカ事件当時の政権もまた、おそらくは世論の動向を見つつ、事件の対処方針を練ったのでしょう。その結果、拘束されている犯罪者の釈放に応じたり、持参金までつけたりしたのでしょう。
先に「世論」とは具体的には選挙で勝てるかどうか、と書きました。世論に関する学説は様々ありますが、まぁ選挙でそれが一挙に明らかになると考えてもそう間違いではないでしょう。これを読んで「政治屋は次の選挙のことを考え、政治家は次の世代のことを考える」という言葉を思い浮かべた人もいるかと思います。「次の世代」というのは「あるべき姿」とか「理想の政策」と言い換えてもいいと思います。要は立派な政治家というものは目先の選挙目的などではなく、大所高所から物事を考えて行動するものだ、次の選挙での勝利ばかり考えるのは小物のすることだ、ということです。世論におもねってばかりいては困る、というのがこの格言の言わんとしているところだと思います。これはある意味真理ですが、ある意味間違っています。
「選挙」という「世論」を無視して理想ばかり追い求める政治家は、選挙民にとっては危険な存在です。だってみんなが望むことをしてくれないんだもの。この格言に暗示されているとおり、「世論」と「理想のあり方」というのはしばしば齟齬を来します。そのときに「理想」ばかり追い求めていては、選挙民は幸せだと感じられないでしょう。「理想」ばかり追い求めている政治家は、結局のところ落選します。よって、世論の動向を見つつ政策決定を行うことは必ずしも悪いことではないし、その世論の表れが具体的には選挙である以上、選挙を視野に入れて政策決定を行うことも必ずしも悪いことではない、と思います。
そうしたときに、今回の一連の事態のさばきは世論も見つつ、筋も通しつつ、という絶妙なものだったと評価します。(まぁ常に「理想のあり方」とは何かが問題になるわけですが)


えーと、とりあえずこんなもんでしょうか。あと「人質が今後政治的に使われることへの危惧と嫌悪」についてはもう少し詳しく書こうと思っているのですが、説得力を持った考えがまとまっていないのでこれについてはいずれまた。
なお、ご批判が多数あっても、当座この「覗き穴」を閉じるつもりはありません。今後とも、反省すべき点は反省し、正すべき点は正し、主張したいことを主張してまいります。
むしろ私は、ご批判より業務の爆発による更新頻度の低下を懸念しております。
あとid:nabesoさん、これからもしばしば言葉を濁しますので、ぜひ生暖かい目で(略)