サイレント・マジョリティーについて

どうも最近「サイレント・マジョリティー」という言葉の使い方に違和感を覚える。
私が理解する「サイレント・マジョリティー」とは、「もの言わぬ多数派」。英語圏でどのように使われているか知らないが、日本における「サイレント・マジョリティー」とは、そもそも60年安保の際、時の首相岸信介が言った「声なき声」のことだろう。国会・官邸を取り囲む数十万のデモ隊、マスコミの攻撃。この中で発言された「声なき声」とは、表だって発言・行動しないまでも、岸信介及び安保条約改定を支持してくれる人という意味であって、極めて政治的なシンボル操作である。
ところがどうも「サイレント・マジョリティー」を「声がない人が多数派を占めている」という状況に対して用いる人がいるようだ。例えば先の第一回はてなダイアリー評議会において、投票しなかった人が大多数であったことから、「サイレント・マジョリティーを無視している」と批判するひとがいる。本来の意味に立ち返って考えるならば、そのように批判する人は、キーワード「ボイン」の削除を主張する立場から、投票結果に対して文句を言っているということになるはずだ。投票結果では少数派だったけど、本当はみんな支持しているのですよ、と。しかしそういう主張には見えない文脈で「サイレント・マジョリティー」という用語が使われている場合がある。
この前の大阪府知事選にしてもそう。投票率が50%を切ったことそれ自体を指して「サイレント・マジョリティー」云々するのはおかしいと思う。
サイレント・マジョリティー」は自分の立場を向上させたい少数派が使う政治的用語だ。府知事選や評議会で「サイレント」である人々が「マジョリティ」であることは確かだが、その「マジョリティ」がどのような意見を持っているかなど理解しようがない。なんせ「サイレント」なんだから。
この理解って間違ってますか?