素直なお人…岡光元厚生事務次官

岡光序次(おかみつのぶはる)『官僚転落―厚生官僚の栄光と挫折』(廣済堂出版、2002年、ASIN:4331509249)。出版された直後に買ってはいたのだが、なんとなく読むのをためらっていて、ようやく読了。

意外な素直さ

この人は素直な人なんだなぁ、というのが率直な感想。「はじめに」で、

行政のあり方論や役人道を議論する際の材料の一つとして、自分の経験と考えを、恥ずかしながら提供しようと考えたのです。ですから、議論の際に、馬鹿な奴のケースその1として活用していただければ望外の幸せです。

と書いているが、まさにそうなのだろう。「もうちょっと取り繕ってもいいのに」と思うようなところも率直に書いてあって、それが意図した率直なのかそれとも本当にずれているのかいまいち不明だが、率直であることには変わりない。本書の最後、岡光氏は宗教に関心を持つようになったとし、おれがおれがという思いを断ち切って、お坊さんの忠告のように何もかもすっかり忘れきってしまえるように人生の修行を続けるしかないのだろうとあるように、本書は彼の半生の総決算であって、その率直さは本当のものかもしれない。ある意味、「古い官僚」の典型例がここに見られる。

事件についての弁明

岡光事件は、厚生省(現厚生労働省)の幹部だった岡光氏が、埼玉県の彩福祉グループ代表小山博史氏から、現金を含め便宜供与を受け、老人福祉施設への補助金交付に当たって有利な取り計らいをした、というものだ。事務次官在任中に疑惑が発覚し、辞任直後に逮捕。結局最高裁までいって実刑が確定した。
岡光氏は本書で様々な弁解を試みる。その中には、法律の道理に照らし合わせてそれはそうだと納得できるものもある一方、明らかにこれはまずいだろうというものも多くある。
例えば、岡光氏は小山氏から官房長室で現金6000万円を受け取っていたのだが、これを彼は「借りたもの」であって賄賂ではないと主張する。

確かにマンション購入について、私自身の判断の甘さがあったことは率直に反省している。全てが川崎の宮前区の家が売れるという前提で計画したものだったからだ。しかし、小山に一時的ではあれ金を借りたとしても、いずれ家は売れるぐらいだろうくらいに軽く考えていた。そのとき返せばいい。高い利子を払って銀行から何も借金することはない。官房長といってって退職は目と鼻の先のことだから、いざとなったら退職金だってある。それで返せばいい、そう考えて私は軽い気持ちで小山の持ってきたお金を借りることにした。

しかし、銀行の金利より安い金利(もしくは無利子)で小山氏から借りていれば、当然差額は便宜供与だ。無担保で借りていればそれも通常あり得ない有利な取り計らいだ。宮前区の家を売って借金を返すつもりだったなら、なぜはじめから宮前区の家を担保に銀行から金を借りなかったのか。岡光氏は「銀行よりも安く小山氏から金を借りる意図があった」ことを示唆しておきながら、この期に及んでも賄賂ではないと主張する。彼の中では「これぐらい許容範囲」であり、なぜ彼がそう考えるかと言えば、彼の30年にわたる役人生活の中で、それぐらいのことが普通に行われてきたことを見聞きしてきたからではないだろうか。
また、栃木県企画部開発計画課長としてゴルフ場の開発許可を担当していた際、ゴルフ場の乱開発を防止しようとしたことに対する圧力について、次のように述べている。

しかし当然、開発業者からの反発はすさまじかった。「申請を認めろ!」と言って脅迫のようなものが何度もあった。また業者の息のかかった県会議員からの圧力もあった。さらには国会議員にまで手を伸ばした業者までいた。私自身一番腹が立ったのは、厚生省の上の方の人間から私あてに電話がかかってきて露骨に具体的なゴルフ場の名前を挙げて様子を聞かれたことだった。結局、百カ所近くの開発は許可することになってしまった。

このように、「厚生省の上の方」からの圧力に「一番腹が立った」とし、結果的に認めたくなかったゴルフ場開発計画を認めてしまったとしつつ、一方、自分の疑惑に関しては次のように述べている。

そういう状態(引用者注:小山氏が企画していた福祉施設への船舶振興会(現日本財団)からの補助金の額が少なく、「進に進めない引くに引けない」状態)になってしまったところで、小山は私のところに相談にやってきた。(略)しかし、国の補助制度がないことも知っていた。困ったので、福祉施設全般を所管している施設人材課の課長を呼んで相談をしてみた。しかしこれと言った案も出ないので小山に帰ってもらった。(略)半年ほどするとある日突然に小山がやってきた。(略)このままでは船舶振興会の援助の方も立ち消えになりそうなので、何かいい考えはないかというのである。仕方なく、再び施設人材課長を呼んだら、…「交流人材センター」といわれるものだが、こうしたものを併設するなら、従来から認められているし、事例もあるという。

これぐらいは便宜供与には当たらない、という主張だが、このとき、施設人材課長は「上の方の人間が具体的な施設名を挙げて様子を聞いた」と感じただろう。たとえその後岡光氏が、制度として具体的にその施設に補助金をつけることは自分の職権の範囲外と主張して、それが正しいとしても、下に圧力(と見られかねないもの)をかけたことは事実だ。それに、自分が圧力を受けたときは憤慨し圧力をかけたときはしれっと流すというのは、自己中心的な考え方だといわれても仕方がない。

薬害エイズの話

岡光氏が「素直な人」であることが伺える記述はまだある。菅直人厚生大臣時代、大臣が薬害エイズに関する資料を徹底捜索することを命じたら、今まで「存在しない」としていた資料があっさり見つかったことがあった。これに関して、岡光氏はこのように述べている。

…私はあえてこの件に関しては厚生省を弁護したいと思う。事件当時、生物製剤課がこの問題の担当だったのだが、その後組織変更があり、そのために部屋替えが行われた。その際に個々の関係書類も移動したのだが、移動したはずなのにどうしたものか前のところにそのままに残っていたものがあった。そのために請求されていくら探しても見つからなかった資料が、後になってから以前の書棚を念のために見てみたら見つかったということのようであった。意図して隠したものではなかった。

これが事実かどうかは分からない。しかし、たとえ岡光氏が言うように「意図して隠したものではなかった」としても、「資料管理が甘い」という批判もありうるし、最初に請求されたときになぜ徹底捜索しなかったのかという批判も当然だ。そういう点において批判されることをあえて甘受してこう書いたのか、それともそんなことまで頭が回らなかったのか不明だが、率直な見解表明ではある。

官僚のあり方

一方、本書は官僚制度や政と官のあり方、政策立案全般について、非常に示唆に富む提言を行っている。彼の主張は、決定は政治家が行い、役人はそのための判断材料を出すことが重要だ、というものだ。
ハンセン病水俣病薬害エイズという、官が判断を誤った、あるいは判断が遅れた事例を持ち出し、それを確証がないので結果として何も手を打てないまま、事態を悪化させていった典型的な事例であるとしつつ、以下のように述べている。

はっきりとした一つの結論が出ないのならば、事態に対応する案をいくつか提示することの方が重要なのではないだろうか。情報を明らかにし、この情報からかく考えるとして案を示すわけである。結論は国民的な議論にまかせるか、あるいは国会という政治の場で決着をつければいいことなのだから。こうしたことさえしっかりとやっていたならば、過去の典型的な三つの事例は、少なくとももう少しはちがった方向に向かっていたのではないかと私は考えている。

また別の箇所では、

テクノクラートであるのならば一つの案件を処理するためには、三つ案を出さなければならないということを私は信念として持っている。(略)その三つを提示して政治にその判断を仰ぐ。だいたいは「中策」に落ち着くのが常ではあるというものの、その決定過程を公開するか、あるいは政治的な対立を孕んだ案件ならば野党の意見を容れるような場をオープンな形でつくるといった手法を講じる。…その過程をていねいに進めていけば、国民合意という観点から見ても結果はそれほど大きな食違いは生まれてこないものだと私は考えている。

と指摘している。「オープンな政策立案」というのは私も関心を持っているところだが、このあたりの提言は事務次官経験者の言葉であるだけに重い。
その他、族議員、キャリア制度、教育、小泉総理の評価等に関し率直かつ実のある記述がされている。

隠された話題

ただ一点、岡光氏が率直に書いていないことがある。それは厚生省内部の権力闘争のことだ。教育の問題、特に東大卒の弊害に触れている部分で、以下のような記述がある。

…私自身についていえば、東大で学んだことというのはその後霞が関に行ってからほとんど役に立っていないといっていいと思う。むしろ私にとってはセツルメントに関わっていたときに、「菊坂ハウス」をめぐって「代々木」と「反代々木」の主導権争いを身近で経験したことの方が、よほどその後の役所内での権力闘争では役に立ったかもしれない。

ここで岡光氏は役所内で権力闘争があったことを明示している。権力闘争とは具体的には事務次官に至る長い道のりのことだろうが、それが彼の「転落」に関係しなかったとは考えられない。まだ岡光氏の中で整理しきれないものもあり、また現役職員も絡んだ大きな問題に発展する可能性があるので、彼はあえて触れなかったのだろう。しかしこれに触れなければ、なぜ岡光氏が「転落」したのか、今後の公務員制度をどうするのかということを考えることができない。これだけが残念な点だ。


私の知る限り、民間とのつきあいがルーズなこの手の「古い官僚」は絶滅しつつある。しかし、同時に大胆な構想力を持った、人間的に魅力のある官僚も少なくなっているような気がする。本書はそのような「古い官僚」の最後の告白である。ここまで率直な告発は今後あるかどうか分からない。というのは、前述したように、この告白が彼の宗教的観念から発せられているからだ。「古い官僚」がどのような風土の中でどのように考えてきたのかを知るための、そしてそこから生まれる率直な官僚(自己)批判書として良書である。また、マスコミ報道と全く異なった事件の様相がここにある。「事件」がマスコミによってどのように「製作」されていくかの好例も見られる。検察の取り調べの実態についても驚かされる。
1680円。

その他官僚を知るための本

とりあえず、古典として城山三郎官僚たちの夏』(新潮文庫、1980年、ASIN:4101133115)と、比較的新しいものとして榊東行『三本の矢』(早川書房、1998年、ASIN:4152081643ASIN:4152081651)を挙げておく。前者は旧通産省、後者は旧大蔵省が舞台。
官僚たちの夏』で、新人ふたりが居酒屋で飲みながら「毎晩12時ぐらいまで働いて、体が持つだろうか」みたいなことを話している場面があるが、そのころはそんなに平和だったのかと驚かされる。本書は昔の話なので、現在の官僚像からはちょっと外れるかもしれない。『三本の矢』に関してはid:kanryo:20030726#p1参照。
あ、あと西村健霞が関残酷物語―さまよえる官僚たち』(中公新書クラレ、2002年、ASIN:4121500563)も。私は筆者と若干見解を異にするが、霞が関で繰り広げられる「残酷物語」を楽しめます。
官僚を知るための本については随時追加予定。